昭和42年12月20日 朝の御理解
(途中から)
立ち行くおかげ、立ち行かせて頂くおかげというのが、お道では、その日暮らしだと、日々がその日暮らしと、その日暮らしであればこそ、今日も神様のおかげの中に今日一日が立ち行きました、今日一日があれこれと( ? )、そして本当に神様のおかげで今日も立ち行きましたと、日々が立ち行く、日々が立ち行くという毎日を繰り返させて頂くのでございますけれども、本当にもうその日暮らしといても、その日暮らしの内容というものは、だんだん信心が進むにつれ、分からせて頂くにつれ、その日暮らしが豊かなその日暮らしになっていくというようなおかげを( ? )。毎日毎日がその日暮らし、神様はこのような中にもこのようなお働きを下さる。そこにいよいよ神様のおかげで生かされていっておるという日々、そういう実感の中に信心生活が営まれていく。これがもしそういう風になってなかったら、まあ例えて申しますなら、たくさんのお金と( ? )、持っておる、その、お金がいる時には銀行から、買い物でいる時には買うてきておられる。( ? )というような( ? )。本当に自分で生きておるいうようなものしか生まれてこないのです。( ? )その日その日が、その、神様のおかげの中に分からせて頂くところその日暮らしができますと 、本当に神様がね、生かさにゃおかん、幸せにせにゃおかんというような働きを、身近に感じさせて下さる。そこからいよいよ信じる心というものが生まれてくるのです。神様を信じる、いよいよこの世の中にはもう生かさなきゃおかん、幸せにせずにはおかんという働きがいっぱいあるのです。そういう働きをいよいよ、五十信ずれば五十の?になり、百信じれば百の金?になるぞという事になっていくわけなんですね。日々の事ながら不思議でたまらんと思う。たびたびのことながら本当に神様の一分一厘間違いのないのに( ? )という(何かがある?)。そこにこそ初めて私は信じる心の有難いという事も生まれてくるんじゃないかと思うですね。そういう生活が有難い、そういう生活が本当にできさせてもらって、私はゆとりのあるいわば生活。いわゆるそんなら必ずしも? ならんという事も、食べるものは毎日毎日食べるだけ与えられるというような事だけでも、例えばそうやって、まあ中にありましても、神様のおかげで立ち行かせていただいておるという、いよいよ有難うなってくるわけですね。
昨日、昨日じゃない月初めに経理を頂いております久保山さんが、今月は十八日までの支払いが、十日、それから十八日に七十五万あります、支払いが・・・・・・・・?。ない時には、もうここの場合は毎月、その日暮らし、まあ月暮らしとでも申しましょうかね、毎月、毎月それだけの支払いがなされなければ立ち行かんのです。合楽の中は。どうぞよろしくお願いしますというお届けを願っておっ た。それでおかげで十日は二十五万、あっちこっち十日の支払いがとどこおりなくすんだ。ところが、おかげを頂きまして十日の支払いは済ませた。十八日の支払いをどうぞよろしくおかげ頂きますようにという。現在、銀行の帳尻はいくら残ってますかと言ったら、残っておりませんと言う。残っておりませんって( ? )。私はもう言いながら思うたんですね。自分では( ? )ごとその思うてですね。そうたい、自分で( ? )、神様にお願いして( ? )ち言うてから。けれどもその、(日吉さん?)としては17日が( ? )報徳祭( ? )18日が( ? )。おかげを頂きましてから一週間のその間に、もう本当に( ? )というおかげを頂いてね、( ? )その、(お祭を?)させてもらって、(支払いを全部させて頂こうとしたところが二万円だけ足らなかった。それが( ? )けれども、相手は銀行です。そんなわけには( ? )いかん。それで私があの、ならお賽銭箱を開けてみてごらん、いつもこれは24日に開けてみるんですけれども、それがちょうどおかげを頂いてから、足りなかったという( ? )。それで私は昨日の朝からの御初穂をまたださせて頂いてから( ? )、だから残りを仕上げとこう私が思うたんです。そしたら、親先生あのもう五千円ばっかり余りますから、これはようございますとこう言う。( ? )それだけの事ですけれども、それこそ(大祭?)の事ながら一番おかげ頂くのは茂さん、神様の間違いない、もうそれこそ泣くまいと思うても泣かなければおられんというほどに間違いないのです。一番おかげ頂くのは茂さん。その様子を見ておった高芝さん夫婦ね、最近私は今度のこのご造営が始まって経理を承らせてもろうて、本当に神様の一分一厘間違いのないなさをです、もう度々に実感する。今度は、という時でも本当に神様はおかげ下さっておる。本当に神様の働きの、ほんとに頂いていっておるという事が分かるとこう言う。それを実際に経理の御用をさせて頂いておる茂さんがもうとにかく感じておる。その感激の模様を見て、神様の( ?茂さんが言われるが、目の当たりに見せて頂いて、神様ちゃあ一分一厘間違いのない事ですなあとこう言う。そうじゃろうな、これは皆、お広前のの事だけに一分一厘間違いのないわけじゃないとばい、ここの御広前を中心としてここにご縁を頂いておる信者のみんなが同じおかげを受けられなきゃいけんとよ。それを例えば信ずるか信じないかというところにね、おかげがいよいよ頂けたり頂けなかったりというような事にもなるけれども、そこんところはいわゆる頂けないのは私共のせいである。いよいよ信ずる力を養わせて頂くというところにみんながおかげを受けられるようになった、という事ですね。というてまた高芝さんが申します。そして私は帰ってき、そして言いよったら電話がかかってきたんです。総務の高橋さんから茂さんに電話がかかってきたんです。もうやっぱり総務の責任上いろいろやっぱ心を使っておったんですね。あげん茂さんがもう、今度ばっかりはこれはできんごとある、( ? )もう18日じゃけん、しかもそれがもう19日という(事も知らんけれど?)、すぐできる腹はないから、どげん心配しよるじゃろうかと思うて電話してきたわけですね。そしてまあ二十万三十万足りんというならどうかして福岡の方から用意をしてから持って行こうというので、茂さんに電話がかかってきたんですね。支払いはどげんなったじゃろうかっちいうてから、それがもう不思議でたまらん、私はそれが聞こえてるんです、そこからそれを言っておるのが。もう、高橋さんおかげ頂いたとばい、本当に今度もいつもの事ながらこうやっておかげを頂きましたっち、向こうの方は分からんのですけれども、向こうの方も受話器持ったまんましばらく声が出んぐらいに感じる。
夕べ夕方からまた高橋さんがお礼に出てきてるんです。おかげを頂いて、ちょうど茂さんもまた、その銀行の支払い、あるいは支払いが済んだ事をお届けにちょうど来て、ここで一緒になった。そして度々の事ながら高橋さん、これは間違いのないことですよと言うてそのおかげを受けておる、これはまた余談でございますけれども、高橋さんが(きれいに?)自動車を新車で買われた。(いうては?)現在自動車が2台あります中に、今度は自家用車を頂いておかげを頂いておる。それは御真意の中にですね、もうそれは恐れ入ってしまうほどのおかげですね。はあ神様がね、御広前の事をこれだけ一生懸命になっておりゃ、しかも年が同じ年、このような働きがまあ不思議な事であるなあというて( ? )。今までむつやの方もお許しが頂けなかったのが、昨日の朝、ここで茂さんがお届けをしよる時にお知らせを頂いたんですね。自動車は何々の自動車のセールスが来ておった。値段のおり合いをなさる。そこでその、そんなら、まあ良く考えて、私、いうなら。もういっぺん( ? )にしよう。もう( ? )たら、というてその、言いよるところへ今度は違うトヨタというセールスがやって来たんですね。そしてそこにセールス二人になったんですね。そしてどうでんこうでん自分ところの車を(買うた?)。自分はまあ品物がそれだけ良方が仰るならね、私はポンコツで勝負はできんけれども、金額の方で勝負したい。というてそのセールスをやってるわけなんですね。だからもうこれはちょっと金額になってきたもんですから、まあ待ってくれと、まあ良く考えさせてもらってと言うてただセールスを帰すところが( ? )自分方( ? )お許しを頂いて車の方のセールスが(やってきたんですね?)。向こうが金、金額で勝負するというならね、私の方も金額ではどこにも引けはとらん事にする時に、本社、本社というですかね、店の方へ帰って腹を決めてきました。というて、それこそ大変な金額ですよね、その( ? )は。ですから、これをおまけするわけには、今安くするだけじゃいかんから、一応それだけの金額を頂いておって、その十五万ですか、その金を私がお返しをするという事になったんです。昨日そういう、茂さんは一生懸命そういうような御用の為にしておるうちに家ではそういう事の働きになってきておるわけですね。
高橋さんは高橋さんでですね、そういう( ? )、今まで2、3ヶ月前からお許しを頂いておるんです。だからその、この車をと神様から頂いておりますから、それを買うために( ? )に、例えば30万ですかね、(押印を押す?)とが、三十何万です、ところが毎月、月に一万円ずつぐらいその、下がっていくわけなんですね、自分の車が、乗っておるものが。こんなに下がるわけですよ、一月の間に一万円下がっていく。だからもういよいよ高橋さんあなたが仰るような金額ではできない事になって、( ? )ようになってきた、向こうから。それが、昨日その新しいセールスが代わったからというてその、挨拶に来たわけなんですね。ちょうど時を同じくしてなんですね、むつやと。話を聞いてみると。そしてその、午前中から来てから、お寿司どん食べとるごたるとでもう帰らにゃならん。とにかくもう、私は、その、もう、いわば三十万台から二十万台にならなければ絶対買わないという、その一本でいっておったんです。そげな( ? )高橋さんできるはずがないじゃないですかというて、セールスを受けなさったんです。ところが新しい、もう、セールスがやってきて、あの、今後代わったという挨拶に来てからですね、高橋さんのところにしばらくおってからです、それなら高橋さん、二十万円台なりさえすりゃ買うていただきますかというところになってきたわけなんですね。まあそれも私は実を言うたら( ? )椛目のご信心を頂いて、親先生からこう頂いておるから私は粘ったんだけれどもね、まあ悪う思わんでくれと、神様のご真意のままに動いておるとじゃから、それとてもんなら、今日行って参って( ? )せんから、んなら、とにかく神様にお願いして下さい、んなら、二十万円台になってもう一万円だけ引きましょうという事になったんです。その三十万円から一万円ですよ。三十何万と言うておったのがですね。だから二十万円台になったわけです。だからそのお届けなり、それでそれを使わせて頂く事になったお願いになりに昨日は参った。同時にそのみんなで茂さんとその事についての、あの、話し合いを、あの、おかげ頂いておる事のお礼にでてきた。そしてまた結局ここで二人が一緒になったんです。まあ考えてみるとおかげっていうものはですね、それに取り組んでおらなければ( ? )はずはないですね。一生懸命、なら神様のお喜びのできる事に専念しておけばいいわけです。しかも、その時を同じくして、むつやの方にそういうような事でおかげを頂いた。高橋さんもおかげを、私を信じられ( ? )年内に入ってくるという事におかげを頂いておるわけです。本当に、いよいよ神様、なるほど神様の事さえ一生懸命思うとりゃ、私の事は神様が一生懸命思うておって下さるというのが分かるという信ずる力が、だんだん誰にもできてきておるわけです。それはそうばってん、できるものまでがなるほどと合点がいくようになってきたんです。高芝さんが、なるほど茂さんが言われる、その、経緯を通して神様をいよいよ分からせて頂くという茂さんの事がはっきりこう自分の目の前で見とってわけです。ところがです、夕べ茂さんがやってまいりましてから、親先生、本当に( ? )から、私が計算ずれとった、間違えました。五千円余ると思いよったら先生、三千円足りませんでした。三千円ぐらいならよかじゃんの、もう明日でよかけん、ケリばつけといてくれんのちゅうてから、そんなわけにいかんのがやっぱ銀行ですね。だから自分が( ? )立て替えて、銀行に言うて、まあ昨日済ませてくれました。そして言う事です、親先生がこう朝の御初穂をあけてから、三千円あるけんこれだけ持っていっとかんねというようになった時に、持っていっときゃ一つも問題なかったんだけどと、もういよいよ間違いない事が分かりました。改めて分かったというて、またお礼にでてきたんです。神様はそうようにですね、その日その日の立ち行きという事においても一分一厘の間違いのない働き、しかも有難い事を一生懸命思い続けておればです、自分の事は一生懸命神様が思い続けておって下さる、その事をです、私は昨日、二人の新車購入のお許しを頂いて、しかもこのような働きになってくる事を感じる時にですね、もう本当に有難い事だと思うわけでございます。
昨夜は毎月十九日に集まっておられる合楽会の方達の、合楽会がございました。もう時間の過ぎる、いつも十二時迄になっておるんですけれども、もう十二時近くに、十五分か二十分ございました。はあこりゃ十二時過ぎとったいというて、それでもまだ立ちたくないごたる雰囲気の中にです、前日報徳祭を皆さん、全員お参りさせて頂いてから、その雰囲気の中に、信心のいよいよ有すぎ難いという事、もうとにかく十九日ここへ集まってくる事が楽しゅうてたまらんというように段々皆さんがなっていかれているという事が有難い。そんな感じ、会長の中村スギさんが発表しておられます事がです、先生私は今度の報徳祭にはもう本当にもうおかげを頂きましたがですね、先生、こげなんもんでしょうかちゅうてから話されるんですよ。あちらのおじいさんが、下半身が、体が不自由で長く寝ておられます。その世話がいつも大変なんですね。いわゆるその、下の世話からしなければならない。食事も。ところがですね、先生、昨日の御大祭の時だけは、初めの間は何時になったらちょっと帰らにゃならんと思うておったけれども、それからずっと、うちのおじいちゃんも忘れてしもうて、先生、こげなことでよかじゃろうかちゅう風に思いよるわけです。もう本当にころっと忘れてしもうとりました。もうお祭りが済んでいろいろ御用をさせて頂いて、四時にはっと思うてその、もう先生こげなことは初めてですちゅうわけですよね。おじいちゃんの事が全然自分の意識からなかったちゅうわけです。もうおじいちゃんに対して相済まん事ですけれども、もうとにかく神様、御大祭の雰囲気とその有難いという事のことで、その事を忘れてしもうておりました。それからもう、それこそ、金光様金光様というてその、おじいちゃんにお詫びするごたる気持ちで、それこそ小走りで家に帰らせて頂きましたら、おじいちゃんがもうぐっすり寝たぎりでおぼえなかった。それで、下の方が汚れとるじゃろうかと、・・?も汚れとらじゃった。もうこげな不思議がありますでしょうかちゅうてから、昨日話されるんですね。私はこのおかげを頂く事の本当の骨合いというのは、自分の心から不安が心配が消えてなくなるところまで信心は打ち込まなければだめだという事じゃないかと思うですね。自分の事はもう棚に上げて、そして御広前の事を思い続けた、なら高橋さんね、( ? )は、何十万という金がどげんなるじゃろうかとこう思うた。それはまだ電話で、茂さんその事で、まあその、おかげを頂いてから、まあおかげを受けて、大祭?の事ながら恐れ入ってしまうと言う。とにかくその事に専念させて頂いておったらうちの方ではうちの方でですね、そういう働きが両方とも自動車を通してです、おかげを受けておるんですね。うちの事はいわば棚に上げておるというか、忘れておるというか、中村さんの場合は忘れておった。茂さんやら高橋さんの場合は棚に上げておる。そして二十万か三十万ぐらいならちょうどこちらにもそのくらいの都合はできるから、茂さんが足らんから待っておるというたらすぐにでも持って走ってくるつもりで電話かけたんです。( ? )その事をですね、それこそ茂さんが(揃った?)、改めて涙流してから喜ぶわけですね。私がこうやって御用させて頂いておる事をです、高橋さんがこげん心配しておって下さったという事が、もうその、もう何ていうか、友情というか、信心友達の有難さをしみじみこのように感じておりなさった。それを聞かせて頂いて私もうれしかったですね。そういうようなものがですね、おかげにならないはずはない。そして最後の最後までです、なるほど親先生が御初穂をひっくり、朝の御初穂まで出して、もう三千円、いや五千円余るけん要りませんとお届けに来ておるんです、というわけです。・・?やっぱ三千円足りんじゃった。もうその辺のその微妙さ、不思議さ、その事によってまた夕べ御礼お届け来て、神様に・・・?お礼のお届がが出来た。おかげを蒙りました。私いつも( ・・・? )、私共が本当にその日暮らしの中に、なるほど神様がこういう微妙な働きを下さるんだという事を信じれるところにです、有難い尊いその日暮らしができてくる。その日暮らしも、千円のその日暮らしもありゃあ、一万円のその日暮らしもある。それがかつがつながらそれがその、おかげを頂かせてもらうというところに、神様にお任せしておけば大安心というその心の状態がね、頂けてくるんです。そこんところをね、皆さんが日々体験して、信ずる心を祈らせて頂くために、不安が心配があるけれども、その不安心配をころっと忘れてしまっておるぐらいに有難く御用に打ち込まにゃいかん。この事はというような事でもです、自分の事は棚にあげて神様の事に一生懸命になっておればという事と、あんまり、あんまり( ? )、理屈は同じなんです。自分の心配は棚に上げてある。自分の事は棚に上げてある。そして神様の事を一生懸命させて頂いておりゃあ、金額の上にも、または思い願いであるところの自動車の購入という事の上においてもです、そういう働きがあります、もう神様のして下さるような事が分かるでしょう。そういう私は体験を積み上げていって初めてその日暮らしの有難さというか、その日その日を神様が本当に守り、させて下さっておるところのおかげを頂かせてもろうて、どのようなおかげを頂いても、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという事が本当に分かる。そしてその日暮らしではない、ゆとりもある、私はおかげを頂かせてもらう時にそのおかげが生きてくるとこう思う。私が、私はお金を持っておるから、私は健康を持っておるから、私は物を持っておるから、神様に頼まんでも自分で生きていけれるというのでは、神様のおかげで生きていかれるという、皆さんどちらが有難い思うですか。私が生きていくという生き方が一生続いた人のいわば末路を思うてごらんなさい。私が私がで生きていくという生き方です。もうそれこそ、それこそ天地ほどの開きができてくるんです。神様のおかげで立ちゆく、神様のおかげでおかげを蒙っておる。それがどれだけおかげを頂いてもです、その神様のおかげの実感の中に本当にその日その日が立ち行けばけっこうだと仰る。その日その日の立ち行きをです、神様のおかげで立ち行く事ができる。それもそんなら小さい小さいその日暮らしのところからです、それがだんだん育っていく、大きくなっていくところのおかげ。
お父さん、昼までは頂くものがありましたけれども、今夜はもう何にも頂く物がないとですよ、家内がこういうようなことを言うような事はもうしばしばでございます。けれども、ひとかたぎでも、いっぺんでも食べれなかったという事はなかったです、私ども。いよいよ今夜はもう本当に何にもないですよ。神様にお願いしときゃよかと、それを私に聞かせる。んなら隣からちょっと一升借っとけという事はようしませんでした。ある時です、私の方の裏に篠原さんという方がおられました。そこの御親戚の方です、草野の小学校の近所に住まわれておられた。ちょうどその時分は何か消防か何かで何か集いがありまして、たくさんの炊き出しがあっておって、その炊き出しの、その主任になって学校で御用されたんです。たくさんのおにぎりができたんです。ところがそのたくさんおにぎりが余ったもんですから、お世話人の方達だけでショーケ一杯ずつぐらいその、分けて持って帰っておられました。その時分( ? )一杯、とにかくあの、いわゆる、おにぎり、白いご飯を銀飯で売った時代なんです。その銀飯が、しかもそのおにぎりをです、ショーケ一杯
持って帰ってこられた。ところがやっぱりお百姓さんの事ですから、うちではもう、私どもに鶏をその当時何羽か飼っておりました。ですから、このおにぎりを食べて下さいというて渡すと失礼になると思われたんでしょう。にわとりになっとやって下さいというて、ショーケ一杯おにぎりを頂いた。本当にその、神様の働きの間違いなさにね、驚いてしもうて、本当にそのおにぎりをお粥さんにして頂いて、さあ明日は明日の風がまた吹くという気持ちでおかげを頂いていって、んなら一かたぎでも頂かなかったことはなかったというところを踏まえて頂いてです、ちゃんと神様が生かさにゃおかん、幸せにせにゃおかんという働きがある事を、それこそそういう事の中、そういう例えば( ? )という事に、そういうところから私共体験させて頂いて、だんだんだんだんおかげを蒙らせてもろうて、こうしたその日暮らしができるように、現在のような(この生活?)ができるようなおかげを頂いておるのでございます。もう神様にお任せしときゃあ神様が食べさせんというような事はありなさらんという確信が強いわけです。いわゆる神様を信じる力ができると同時に育つと同時に、私のいわばその日暮らしがいよいよ垢抜けしたもの、有難いもの、豊かな豊かなものに育っていく。そして何十万なら何十万といったような場合でも、それがちゃんとこうおかげが受けていけれるという。これはまあいうならば、一つの手本、見本です。それならこれと同じように皆さんもおかげ受けられんはずがない。というところをです、皆さんが、なら手本を見ながら信心の稽古をなさり、それにはです、不安があり心配がある、いや、うちの事はころっと忘れておったというくらいのですね、有難いものに打ち込んでいくところの信心から、私はそういう風になってくる、そういう信心の力もいよいよ強くなってくると思いますね。